集中講義!日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか 仲正昌樹
バブル崩壊という経済現象を機にいまや時代遅れの感もある”ポスト・モダン=現代思想”、
一体それは何だったのか、頭書の入門書を下敷きに少し振り返ってみます。
ポスト・モダン登場の背景
この項、私の説明が不十分です。
要は“現代思想”は“現象学”や“構造主義”を母胎に反“近代知性”として生まれたという事です。
よければ次項“80年代日本の“現代思想”まで飛ばし読みして下さい。
能天気な二項対立図式で理論信仰に溺れた時代錯誤のマルクス主義に対する批判。
70年代新左翼・全共闘の思想的支柱・吉本隆明はマルクス主義並びに丸山真男などの“近代主義”を批判、“共同幻想”の観点から理性の解体を目指す“ポストモダン思想”への橋渡し的役割を担う。
マルクス主義哲学者・廣松渉はルカーチ流“疎外革命論”を批判、独自の“物象化=共同主観性”の構造を明らかにする事で、あらゆる物を、それを構成する社会的関係性という視座から捉え直そうとした、これも或る意味でポストモダン思想の萌芽とも言える。
現代思想は“大衆消費時代”を背景として“近代知”の限界の解明を使命とした。
“大衆消費社会”における“人とモノの関わりの変化”を大胆に解明したペンヤミンの“パサージュ論”、ボードリヤールの“消費社会の神話”は“記号論”的世界観や“構造主義”の延長線上にある。
“現代思想=ポストモダン”を生み出した“構造主義”及び“ポスト構造主義”
ソシュール言語学、レヴィ=ストロースの人類学、ラカンの精神分析
フーコは権力構造を解明して近代的人間観・近代知の終焉を宣言
更にデリダは“二項対立図式”を免れる“脱構築”を探る
ドゥルーズ=ガタリは遊牧民(ノマド)の生き方に果てしなき欲望に追われる“欲望する機械”の病理を見る、“スキゾ・キッズ”の登場である。
80年代日本の“現代思想”
すべてを説明出来る絶対的な統一理論(大きな物語)のようなものは目指さない、むしろそういうものを構築しようとする欲望に抵抗する事を共通項にしていたところがある”現代思想=ポスト・モダン“、ズバリ申せば“大きな物語”としての“マルクス主義=近代主義”に取って代わるものを求めたのが“現代思想”といえよう。
80年代日本で近代的な“人間”観に最初に揺さぶりを掛けた人物として著者はあの経済人類学者・栗本慎一郎氏を取り上げる。
エリート一家に育った浪人生が両親を金属バットで殴り殺した凄惨な事件に対しての栗本氏のコメントが象徴的である。“社会もヒトも精神のエントロピーを放出せんがために祝祭的時空を求め、しかるがゆえに日常性そのものを保証される。日本のような学校化社会あるいは北朝鮮のような監獄化社会では人は無意識のうちに祝祭の極致たる戦争か殺戮の供犠を求めざるをえないのである”
殺人青年を受験戦争の犠牲者であるとか、彼の行為が非人間的で悲しむべき行為だと言う通説に対する根源的批判だ。青年の殺人を“祝祭的蕩尽”としてそのまま認めているかのようだが、一方栗本氏は“蕩尽”され“供犠”にされた両親に“同情”し、青年は自己そのものを儀式的破壊(つまり自殺)すべきであったと言う。
このようなお説を掲げた方がマスコミを賑わし、石原慎太郎氏の選挙基盤を譲り受けて国会議員に選出、喧嘩好きを売り物に各政党を渡り歩きながら経済企画庁政務次官、近頃はどこかの大学学長まで歴任されているそうだが、それはさておき。
“理性的人間”観を切り捨て、ポランニーの説を下敷きに“生産的に労働する人間”から“蕩尽する人間”観へのパラダイムシフトの転換が当時のバブル経済にマッチして栗本氏が威勢の良い人気を得た頃が懐かしい気もする。
一方今の世の中“お祭り”なんて所詮無理なんですよと、これ又衝撃的に論壇にデビューしたのが京大助手、26歳の浅田彰だった。主著“構造と力”“逃走論”は逆に難しすぎて良く解らない点が不思議な魅力を生んだのか“浅田彰現象”を引き起こし、一躍“現代思想”“ニューアカデミズム”の旗手となる。
彼がキーワードとした“スキゾ/バラノ”という言葉は時の流行語大賞まで受賞した。
小難しい“現代思想”本がベストセラーになり、聞いた事もない哲学用語が流行語になる、凄い事だった。浅田氏は言う。
栗本氏の言う非日常的“祝祭”という形での“蕩尽”はあくまで“象徴秩序”がきちんと機能しており人々が“共同体”の中で安定したアイデンティティを保持出来るような社会での話である、すでに“象徴的秩序”は崩壊しており我々は共同体的価値に縛られない存在だ、“祝祭”を通してカオスを回収し“象徴秩序”へ回帰する事など出来ないのである。
“「真理探究の道」に励んでみたり、企業社会のモラルに自己を同一化させて「奮励努力」してみたり、あるいはまた「革命の大義」とやらに目覚めて「盲目なる大衆」を領導せんとしてみたりするよりは、シラケることによってそうした既成の文脈一切から身を引き離し、一度全てを相対化して見るほうがずっといい”
シラケ社会を“哲学的”に真っ向是認しました。“ダサイ!”“ウザイ!”
栗原氏の“蕩尽論”は“大衆消費経済”に乗って、大向こう受けを狙って面白可笑しく派手に打ち上げた感がありますが、浅田氏は余り愉快な話ではないですが“正しい事、信じる事なんて何も無いんだ”と言う“現代思想”を下敷きに現代のシラケ社会の不安をキッチリ説明してくれました。
著者は注釈します。(シラける)とは下界から浮き上がる事ではない、自ら“濁れる世”のただ中をうろつき、危険に身をさらしつつ、しかも批判的な姿勢を崩さぬ事、対象と深く関わり全面的に没入すると同時に対象を容赦なく突き放し切って捨てる事、同化と異化の鋭い緊張、シラケつつノリ、ノリつつシラケる事。
“カオス的流れをコード化する事によって構成された象徴秩序、それを脱コード化する事で出現したダイナミックで(自由な)近代社会、いまやコスモス(宇宙秩序)は沈黙せる無限空間に変貌し、ノモス(法的秩序)の解体で個人は共同体の外に放り出される(ドゥルーズーガタリ)このコスモスーノモスの不在がそのままアノミー(無規範状態)に、恐るべきカオスの氾濫にむすびつかないようにするにはどうすればよいか“
“スキゾ・キッズ”=色々な事に興味を持ち一つの事に拘らぬ人達。
対するに“バラノ人間”=一つの事に熱中、外の事を考えない人達。
浅田氏はスキゾ・キッズ(シラケつつノリ、ノリつつシラケる)新人類を病気とは見ない、むしろスキゾ・キッズを閉じこめ資本主義に順応した“主体”として走り続けるよう強いてきた“バラノ・ファミリー”こそ病気だという。彼の戦略はバラノ人間に正面から“闘争”を挑んで取って代わろうとするのではない、バラノの群れ(例えば受験勉強とか貨幣に引きずられブラックホールに突入する群れ)からひたすら“逃走”することだ。
一見注意散漫“おっちゃらけ”に見える“ノマド(自由な遊牧民)=スキゾ・キッズ”の軽やかなフットワーク、紋切り型を切り捨て自分自身を含めあらゆるものをやすやすとパロディ化する表現力、次々新たな差異を見つけ出し軽やかに散乱させる感性。
浅田氏はこの様に“近代の内からの解体”を冷静に見守りながら、生き残りの道として近代の後に来た“新人類”の感性をポジティブにうたいあげました(彼が表現の場としてのアカデミズムを否定した事も象徴的です)
事実80年代、サブカルチャーにカタカナ表記の新しい職種などに“新人類”の有能な人達が大活躍したのです。アカデミズムの世界にも“ニュー・アカ”と呼ばれる旋風が巻き起こります。
自らを“周辺”からの“マレビト=トリックスター=異人”としてアカデミズム共同体に切り込んだ文化人類学者・山口昌男、密教マンダラ空間に知の覚醒を求めた宗教学者・中沢新一など。
彼らはすでに巨匠の地位を獲得したようです。
しかし90年代バブルは崩壊します。
大衆消費時代を背景に“生き残りの道”を明かしてくれた先生達はその素晴らしい感性で時代のスターになったのですがバブル経済の崩壊が“スキゾ・キッズ”をもろに襲います。
著者は言います“スキゾ・キッズを続けるのは一見楽しそうだけれど、生活が安定しないので(バラノ的感覚をまだもっている人間にとっては)だんだん苦しくなってくると言う当たり前の事が浅田が一世を風靡してから20年も経った頃になってようやく実感をもって認識されるようになってきたのである”
“好きでフリーターやってる訳じゃない”、不安を抱えたフリーター達も“正社員”の道を求めて“会社”の門を叩きます。
“おたく文芸評論”などに新境地を開発、ポスト・モダンの衣鉢を継ぐ東浩紀あたりを別として、総体的にポスト・モダンは過去の物語になったかのように、“大きな物語=二項対立的史観”が復活、ポスト・モダン思想は左傾化あるいは右傾化を強めていきます。著者はその傾向を憂い“政治家とか政治的指導者でもないのに世の中を導くような理論を構築しようなどというのは僭越である”と警鐘を鳴らしています。
でもこの総括、ちょっと引っかかりました。
確かに神を否定し、知を否定し、正義・真実を否定した“現代思想”は“パンドラの箱”でした。
でも現代若者の“生き残りの道”を“大きな物語=マルクス主義・近代主義”に対抗してポジティブに掲げた物語でした。“小さな物語”かも知れません、“逃げる”と言う形を取ったとは言え、大人とは違った“生き方”を正々堂々と語ったのです。単なる文芸評論や社会時評では有りませんでした。
“ポスト・モダン化には不安と痛みが伴うと言う当たり前の事が今更解ったのか”と前首相・小泉さんの様に仰るのはちょっと冷たすぎませんか?ポスト・モダンは大衆消費時代の徒花だったと言うなら兎も角、“近代知”の限界を指摘しポスト・モダン思想の先に新しい思想展開を期待されているかに見える先生の言葉にしてはちょっと寂しい気がします。
